どんなことでも、その行為が金銭に限らず対価を伴う場合、人はそれを仕事と呼ぶのではないかと思います。
と、大きく括ってみたのは理由があります。
今日起こったある出来事から仕事に対する姿勢について思うことがあったので、そのことについて考えていたら、行為と実効性について整理できれば、腹落ちしそうだったので、先のテーマを掲げてみた次第です。
例えば、誰かのクリエイティブについて意見をいうような場合、それがネガティブな内容だとしたら、発言する自身のポジションを明確にしないと、余計な混乱を招くことがあります。
グラフィックデザイン事案において、コピー、イラスト、画像、ホワイトスペースなどのデザインソースに関して、その必要性を訴えるとき、その要素の必然性を示すことが求められます。気分でいうのは単なる個人の感想であって万害しかありません。
しかし、多くの現場ではそれが横行しており、そこで戦えるかどうかが、クリエイターの矜持であったりするわけですが、当のクリエイターが、混乱を引き起こす場面は日常茶飯事です。
そんなとき、自戒も含めて自身の評価基準を明文化できるレベルで持っているクリエイターとそうでないクリエイターを頭に浮かべると、前者の指摘内容は、すっと腹落ちします。
それは至ってシンプルで次のようなことです。
「見にくい」「分かりづらい」「意味がよくわからない」「暗い」など
要するに、一般の人が感じるであろう違和感や不具合を読み取って発言しているわけです。そして、その評価は自身の基準やルールに基づいて成されます。この場合、デザインを客観視するスキルとそれを評価するルールを併せ持っていることが、クリエイティブを評価する行為に対して実効性を発揮できる条件と言えるかもしれません。
ここまで考えてきて気づいたのです。仕事の定義は対価を伴う行為であるが、取り組む姿勢は人ぞれぞれ。仕事はそれ自体ではなく、姿勢について語られるとき、そのカタチが現れるのではないかと。分かりやすく言えば、素人の仕事とプロの仕事の違いでしょうか。
そして、仕事として共有・認知されるのはプロのそれでしょう。
そこで、繰り返しになりますが、仕事(対価を伴う行為)に対し明確な基準やルールでコミットし実効性を発揮できるのがプロフェッショナルだと思います。
やはりある程度の社会人経験を経ているので、私もプロでありたいと思います。
今日のルール:プロフェッショナルは自身のルール・流儀・思考にコミットする
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